マンガ鳩山歴史館




 鳩山町を中心に遺る古代窯業の規模は東日本最大級であり、おそらく関東・東北では最大と見られています。
 ピーク時(奈良時代中ごろ〜平安時代初ごろ)、鳩山は丘陵のあちらこちらから窯煙が上がり、まさしく焼き物のサトでした。登り窯の数は500〜1000基と考えられています。
 鳩山では「須恵器」と「瓦」の焼き物が盛んでした。須恵器とは釉薬(ゆうやく)をかけていない陶器そのものであり、瓦は主に武蔵国分寺(現東京都国分寺市)などの寺院用です。手まわしのろくろなどを使い、高品質の「製品」が数多く生まれ、それらは南関東に広く行き渡りました。しかし、なぜ鳩山では窯業が盛んだったのでしょう。 それは第一に地質条件、つまり「土」です。鳩山の丘陵の地質は窯をつくるのに最適であり、豊富な粘土とともに窯業の歴史と伝統は現在にも伝えられています。
須恵器(すえき)と瓦(かわら)の流通から生まれたムラ
 須恵器(すえき)とは、5世紀に朝鮮半島から伝わった、陶器の起源といわれる古代の焼き物です。比企丘陵の地質はこの窯を作るのに適しており、6世紀初めから須恵器生産が始まりました。鳩山の最古の須恵器窯跡として確認されているのは小用窯跡(こようようせき)。その役割は、当時の周辺地域に群集していた古墳に納める副葬品を作ることでした。これに対して、7世紀後半、丘陵内陸部に最初に造られた石田窯跡は、寺院や役所のために瓦や硯(すずり)を焼く窯でした。この石田窯跡を引き継ぎ、瓦の量産体制を確立したのが、県指定史跡赤沼古代瓦窯跡(あかぬまこだいかわらかまあと)です。
 奈良時代を迎えた8世紀前半ごろになると、鳩山の須恵器工人たちは須恵器作りのムラをつくるようになり、次第に大きな焼き物のムラが形成されました。折しも奈良時代最大の国家的事業である国分寺の建立が始まり、鳩山の窯は武蔵国分寺(東京都国分寺市)の瓦を焼き、武蔵国最大の国分寺瓦の生産地となりました。

県指定史跡赤沼古代瓦窯跡と覆屋
 瓦生産とともに須恵器も広く使われるようになり、鳩山の焼き物のムラはさらに拡大しました。鳩山で作られた須恵器の広がりは、関東では茨城県の新治窯跡群(にいはりようせきぐん)(新治村)とならぶ最大規模です。武蔵国全域はもちろん、南は神奈川県の平塚市域にまで定量供給しており、東は千葉県市原市域に及びます。
 須恵器のムラでは竪穴(たてあな)住居の数が増え、ムラの面積もふくらみました。成立期にはほぼ赤沼の谷だけに限定されていたのが、8世紀半ば以降は大橋、奥田、泉井、熊井地区などの各谷にもムラが成立したようです。そして9世紀になると窯の中心は須江、竹本に移り、須江「スエ」(須恵器の須恵)の地名をのこしました。こうして鳩山の須恵器生産は地域史的なものへと発展し、現代に連なる焼き物の伝統が根づいたのです。
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