マンガ鳩山歴史館




 1333(元弘3)年、後醍醐天皇のもと足利尊氏や新田義貞らによって、鎌倉幕府を支配していた北条氏は滅亡しました。 その後、後醍醐天皇と足利尊氏が対立。後醍醐天皇側の新田義貞(南朝)と足利尊氏(北朝)の争いが、武蔵野合戦へと広がっていきます。 そして、この鳩山も戦場となったのです。

笛吹峠の合戦
 1352(文治元・正平7)年新田義貞はすでに世になく、その子義宗(よしむね)と義興(よしおき)は後醍醐天皇の皇子宗良(むねよし)親王を擁して鎌倉街道を南下します。一時は鎌倉まで進撃し、足利尊氏は窮地に陥ります。しかし、尊氏は直ちに反撃を開始、鎌倉街道沿いに北上しながら義宗軍を打ち破ります。そして遂に、鳩山町と嵐山町の境にある笛吹峠で最後の決戦となったのです。尊氏軍8万人に対し、義宗軍はわずか2万人。善戦むなしく義宗は敗れ、越後(現新潟)に敗走しました。こうして武蔵野合戦は終息を迎え、室町幕府による実質的な関東統治がはじまったのです。

苦林野(にがばやしの)合戦
 笛吹峠の合戦の後、鳩山周辺は再び戦場となりました。1363(貞治2)年に下野(しもつけ)の芳賀禅可は鎌倉公方足利基氏に叛乱を起こし、苦林野(現毛呂山町)〜岩殿山(現東松山市)で戦っています。
一部に空堀の残るおしゃもじ山は、当時の砦だったのかもしれません。

鳩山町を縦断していた鎌倉街道

 鎌倉街道とは、鎌倉に幕府が開かれたことによって発達した交通路です。鎌倉を起点に、関東各地やその周辺国を南北方向に結んでいました。当時は「上道(かみつみち)」(武蔵路)、「中道(なかつみち)」(奥州大路)、「下道(しもつみち)」と呼び分けられており、鳩山町のほぼ中央を縦断していたのは、「上道」。鎌倉市を発って東京都府中市―埼玉県所沢市―鳩山町―児玉町とたどり、群馬県藤岡市から上信越に通じる幹線道路でした。
 現在の鳩山にその痕跡はほとんどありませんが、過去の調査記録から、いくつか注目できる場所を南から北へとたどることができます。

1.コークミ
コークミの意味は不明ですが、今宿字仮宿で、かつて「上コークミの上の台地に越辺川に下りる旧鎌倉街道の跡地が幅3メートル長さ20メートル位残されている」と言われていました。

2.大道
おしゃもじ山の西麓(にしのふもと)にある小字名。「大道」とは、一般に鎌倉街道などの古道をさします。小字の境の形状も道路を踏襲しています。

3.赤沼入口の供養塔
中世の石造物ではありませんが、安永八年(1779)銘の「日本廻国四国七遍供養塔」があります。これは道標を兼ねるもので、この場所が古道であったことがわかります。

4.街道杉
直径4メートルといわれた古株も現在はありませんが、「幅約5メートル、深さ0.6メートルの掘割状道路遺構が約37メートル、雑木林の中に残されている」(埼玉県教育委員会・1986)という記録があります。

5.熊井くぼち道跡
「50メートル程掘割状の遺構が存在していた」といわれています。

6.はぐれ堂
お歯黒の大将の首を埋めた「羽黒堂」とも、家来にはぐれた武将の首を埋めた「はぐれ堂」ともいわれる地蔵堂。軍旅としての古道にふさわしい伝説といわれています。

7.笛吹峠(ふえふきとうげ)
県内の鎌倉街道唯一の峠で、笛吹峠の合戦(正平七年・1352年)の地と考えられています。「史蹟笛吹峠」の碑があります。

補遺・鳩山の中世
小用鋳物師(こよういもじ

◇おしゃもじ山と妙光寺の板碑群(いたびぐん)


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