マンガ鳩山歴史館




 毎年7月の夏季例大祭「天王様」で知られる今宿の八坂神社。伝承によれば1663(寛文3)年、京都の八坂神社を勧請(かんじょう)したことからはじまります。その祭に江戸時代のにぎわいを留める今宿は、江戸の初めごろには今と変わらぬ町並になっていましたが、江戸の中ごろ「越辺川の筏流し※」がはじまると、さらに栄えていきました。また河岸を備えていた今宿は、物流の拠点としても早くから越辺川流域の中心的町場だったことでしょう。

※越辺川の筏流し
18世紀中ごろに開始し、越生周辺で伐採した材木を今宿で筏に組んで江戸方面へ流した。今宿を中心に「筏仲間」を結成。
 今宿はどれぐらいの町だったのでしょうか?平成13、14年度に行われた「宿(しゅく)遺跡発掘調査」によって様々な事がわかってきました。約200年前の2軒分の建物跡からは川越の町を思わせるような、店と蔵からなる豪壮な建物の連なり(1軒で3〜4棟)が発見されました。このような建物が通りの両側に40軒立ち並んでいたと言われています(『新編武蔵風土記稿』より)。まさに“京、大坂、江戸、今宿”と呼ばれたのに違いありません。また鳩山の近世窯である「熊井焼」の製品も出土し、合わせて今後の詳しい調査が期待されます。

宿遺跡の発掘調査(空から見た近世今宿の町並)
近世の鳩山で生まれた焼き物・熊井焼
 古代、東日本最大級であった鳩山の須恵器生産は、10世紀に衰退しました。中世にも窯場は存在したようですが、まだ確認されていません。そして、通説によると江戸時代の天明五年(1785)に開窯した近世窯が熊井焼です。熊井村の根岸仙之助が、淡路島から来た医師から楽焼の法を伝習し起業したといわれ、窯跡はいまも熊井の根岸家の屋敷のとなりに遺されています。
 窯跡の幕末ごろの層からは、、皿、急須(きゅうす)、行平(ゆきひら)(平鍋)、徳利など、絵付け製品も含む多数の焼き物が出土しています。いずれも最高級のロクロ挽きや削りこみの技が施され、うわぐすりや焼きも見事で、高い技術力がうかがえます。近年今宿で発掘された近世の町並からも熊井焼が発見され、地元にも出回っていたことが判明しました。明治以降には、陶器のほかレンガや土管、瓦も焼いて7代を数えた熊井焼きは、昭和30年代に閉窯(へいよう)しました。

鋳物(いもの)の技で活躍した鳩山の小用鋳物師(こよういもじ)
 関東の鋳物生産は、鎌倉の大仏建立をきっかけに一般的になりました。比企地方には多くの鋳造(ちゅうぞう)遺跡が分布しており、小用鋳物師もその一つです。中世の関東で中心的鋳物師であった物部(もののべ)氏の一派である入西(にっさい)鋳物師は、坂戸市入西にある金井遺跡を工房とし、13世紀後半から14世紀前半に活動しました。小用鋳物師は、それを受け継ぐ鋳物師と考えられています。
 小用鋳物師のものとされる作品は、吉見町阿弥陀堂梵鐘(あみだどうぼんしょう)(建武三年・1336年 現存せず)や県指定文化財の鳩山町円正寺雲版(えんしょうじうんばん)(応安四年・1371年)など数多くあります。ただ、まだ作品以外の実態はよくわかっておらず、製品にも金刺(かなさし)鋳物師という銘が見られるなど、今後の調査や新たな確証に期待がもたれています。この後、小用鋳物師は越(こし)・松本姓鋳物師(中世後半)から江戸時代にはいって清水姓鋳物師、姓鋳物師へと受け継がれ、梵鐘(ぼんしょう)・半鐘から鍋・釜にいたるまで多くの製品をつくっていました。

町指定工芸品
円正寺不動堂の鰐口(わにくち)(元治元年・1864年)、興長寺の半鐘(享保一八年・1733年)、休山寺の半鐘(宝暦四年・1754年)

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