鳩山の地名

地名の特色

地名は自然発生的に生まれ、その中の一部が淘汰され、そして現在まで残されています。江戸時代の検地帳に記載されている地名の中には、現在は全く使用されていない地名も多く含まれています。

現在、鳩山町の大字、小字地名は318ありますが、この一つひとつに先祖がこの地に生きてきた生活の証が込められています。言い換えれば、「鳩山町の過去の文化発達の軌跡を伝える貴重な記録」であるといえます。

「鳩山」の由来

昭和57年(1982)4月1日に町制が施行され、鳩山町が成立しました。旧鳩山村は昭和30年(1955)に亀井村と今宿村の二村が合併して誕生しましたが、新村名を両村の境界にあり、新村の役場の所在地に予定していた土地の小字名「鳩山」をとり、鳩山村にしました。「鳩山」の地名の由来については、歴史的な面からの解釈、地理的位置からの解釈が考えられています。なお、寛文5年(1665)の村絵図には「はてやま」と記載されています。

このページでは、鳩山町の大字毎の地名の特色、由来等を解説します。

村絵図2

寛文年間(1661~1673)赤沼村絵地図にみる「鳩山」

大橋(おおはし)

大橋村は泉井村に属していました。新編武蔵風土記稿はその名のおこりを説明して「村内の小河に橋あり、僅なる橋なれど近村には是程の橋もなければ大橋と呼び来りしを、分村の時遂に村名とせしと云ふ」と記しています。現在、泉井川に架けられている橋が大橋と呼ばれています。

奥田(おくだ)

「おく(奥)・た(処)」で、岩殿丘陵を樹枝状に浸食して流れる大橋川に沿った浸食谷の奥にある集落という意味であります。「た」は処で、田が使用されているのは瑞祥的、願望的な好字として使用されていると考えられています。

奥田の集落形成は江戸時代以前からなされていましたが、神戸(東松山市)の住民によって開発されたという言い伝えがあります。開発当時は17戸ほどの小さな村であったといわれています。その点からいうと、「おき(沖)・た(処)」で、山を越えた向こうの集落という解釈もできます。17世紀の中頃の『武蔵田園簿』によれば、高141石4升9合で、内訳は田が117石5斗7升7合、畑23石4斗7升2合になっています。

須江(すえ)

「すえ」はスエ(陶)で、スエ(据)から来た語であると考えられています。古代の部民であった陶業者に因む地名であります。須江に奈良時代の窯跡があるが、平安時代後期にはここが窯業の中心地であったものと思われます。古墳時代後期の鳥木横穴や平安期の窯跡が多数見つかっています。

須江は室町時代から見られる地名で、新編武蔵風土記稿には建武2年(1335)の渡状に「須江郷」という地名が見えます。

竹本(たけもと)

「たけ」はたける(長)の語幹で、終りに近づくという意味であります。黒石川の上流という意味であるのか、「もと」は所、場所という意味であります。「たけもと」で、黒石川、さらに赤沼川(鳩川)の上流の土地という解釈ができます。また、「たてもと(館元)」が転じて「たけもと」になり、中世の館の存在による地名ということも考えられます。

江戸時代初期には幕府領、その後、寛文年間(1661~73)には内藤式部少輔の領地になり、元禄16年(1703)に再び幕府領、宝永2年(1705)日比野七郎左衛門及びその子孫の支配に続き、明治時代を迎えます。

泉井(いずい)

『埼玉県地名誌』には「泉居の義と解され、泉の露頭を発見してそこに集落をなしたのでその名を生じたとみられる」とあります。また、「いずい」をイズ(出)・イ(井)とすると、泉のある場所、自然に地中から水の出る場所ということになり、いづれにしても湧水に関連する地名であります。このような場所には古くからの集落があります。

元は泉井村ということで1村でありましたが、正保期以降(1644年以降)、上泉井村、下泉井村、大橋村に分かれ、明治8年(1875)上泉井村と下泉井村が合併して泉井村になりました。

高野倉(たかのくら)

「たか」は高いというより上流にあるなど、上手にあると解釈した方がよいです。「くら」について、柳田国男は「岩倉または倉橋などという語があって、ただの岩石地ではない。もとは岩組すなわち岩石の重畳したものをいい、しかも天然の岩組よりも主として人為のもののことであろう」(『地名の研究』)と述べていますが、「くら」はクルで、くりぬくという意味から来た谷を表す古語という意味に解釈したいです。従って、「たかのくら」は上流にある谷間ということと考えられます。また、米の貯蔵倉があったことによる地名ではないだろうかとする説もあります。

一方、奈良時代武蔵守に巨満(こま)朝臣福信という人物が任じられました。この人は帰化人で、巨満は高麗のことである。そして、宝亀10年(779)自ら願い出て一族の名を「高倉」と変えたといいます。高倉(こうくら)が高句麗(こくり)に通ずるという理由からと考えられます。かつての高麗郡周辺には入間市高倉、鶴ヶ島市高倉があります。鳩山町もかつての高麗郡の近くにあり、巨満氏一族が居住していたことが考えられます。

江戸時代には、文政10年(1827)に11戸、天保2年(1831)12戸、弘化2年(1845)12戸、以後12戸が続きました。

熊井(くまい)

「くまい」の「くま」はクマ(曲)で、「い」はイ(居)で集落を表しています。従って、曲った谷間に広がる集落という意味が考えられます。

武蔵国郡村誌の熊井村の項に「年暦詳ならず。上熊井、下熊井二村に分ち、明治9年(1876)丙子合して一村となす。編者按するに風土記稿に上下二村に分たす。然れば分村せしは文政(1818)以後ならん」とあります。

小用(こよう)

新編武蔵風土記稿に「村に伝うる慶長3年(1598)の水帳に、入西郡下越用村畠帳の事と記せば、入西郡に属し、下越用村と号せしこと知らる。上越用というは、土人の伝えにそのかみ比企郡大豆戸村のことといえど、たしかなることをしらず」とあります。越用をコイヨウからコヨウと呼ぶようになって、小用の字を宛てたということであります。中世文書では越生郷越村と表記されています。当地が越生郷に属していたのは、竜穏寺や報恩寺などの有力寺院が越生にあり、それらの寺院で使用する仏具を生産する鋳物師が小用に居住していたためと考えられます。越村がコヨウ村になるのは江戸時代初期のことであるといわれています。

「こよう」はコエ(越)・フ(生)であります。コエ(越)は峠道を越えることで、フ(生)は語尾に付いて「・する場所」という意味であります。「こよう」で峠を越して行く場所ということなのか、入間郡に属していたところからの地名と考えられます。経済的にも絹市場のあった越生町と密接に結びついていたので、山越えの道は重要な交通路でありました。

大豆戸(まめど)

大豆戸は宝治期(1247~48)の『法恩寺年譜録』によれば、「武蔵国吾那入西郡越生郷水口田豆戸等又同国越生郷台之屋敷并水口田大豆土云々」とある地であります。(『新編武蔵風土記稿』)古くは豆土、大豆土と書いていましたが、応永24年(1417)の足利持氏からの豆州三島社の寄進状には、「武蔵国比企郡大豆戸郷」とあって、今日のように大豆戸の字を当てています。享保7年(1722)5月に大豆土村の清水左太夫という人の文書には、「以前小用は上小用と下小用に分れていて、上小用を馬見土村といった。それは、鎌倉時代上州や相模の馬が集まり、売り買いをしたという。そのため、上小用を馬見土(まみど)といい、それが「まめど」になり大豆土と書くようになった」と書かれています。

また、一説には武勇にすぐれた領主が家中の者に馬揃いをさせたので、「まみど(馬見土)」といい、「まめど(大豆戸)」になったともいわれています。

赤沼(あかぬま)

赤沼川(昭和30年以降鳩川と改名)が北西から南東に流れ、越辺川と合流します。合流点付近の天神下、色原、高在家、下にかけては水が出易く、湿地で、沼の状態になった時代もありました。「宮山台」にある氷川神社は、他地域では水害の多い場所に鎮座している場合が多いです。そのような土地であったのでしょうか。「あか」は仏教用語の水を意味するアカ(閼伽)から湿地とか水分の多い場所という意味でありますが、洪水の場合は赤く水が濁るので、「あかぬま」という地名が生まれたことも考えられます。

今宿(いまじゅく)

今宿とは新宿の意味で、古宿に対する言葉であります。苦林の古宿に対して今宿といいました。

新編武蔵風土記稿には「民家四〇連住して宿駅に似たれど、馬次の所にもあらず、少の河岸場ありて近郷の材木・薪等をここにて筏とし、江戸へ出せるをもて土地賑へり」と書かれています。鎌倉街道上道が苦林、今宿を通り笛吹峠に抜けていたが、今宿は鎌倉街道の宿駅ではなく、江戸時代末期以降、越辺川を利用した筏の中継を主体とした河岸場として栄えました。越生地方の杉や檜は黒木と呼ばれ、多くの需要がありました。これを筏にし、さらに二枚を組にして今宿まで流して来ました。越生から今宿までが一日の行程で、ここで水量も豊かになるため、二枚組み二つを合わせ四枚組みにして江戸方面に流したといいます。越生から来た筏師は今宿に泊り、半数は越生に引き返し、半数は江戸に向け出発しました。筏師の賃金は比較的高く、そのため今宿は今川橋を中心に料理屋、旅籠、居酒屋等が軒を連ねました。

今宿は元々、赤沼の一部でありましたが、元禄期(1688~1704)以前に分かれたものと思われます。地内は上宿、下宿、安養寺の3つの組に分かれています。

石坂(いしざか)

「いしざか」は文字通り石の坂で、山麓の地として交通の要衝にあったので、この名を生じたものとみられます。(『地名誌』)。
建治3年(1277)の文書に石坂郷の名があり(『新編武蔵風土記稿』)、また、元徳2年(1330)9月22日付の平顕盛が養子萬寿丸に与えた譲状の中に、所領の1つとして「むさしの国ひきのこをりの内いしさかの村」とあります。顕盛は源頼朝の乳母池禅尼の夫池大納言頼盛(平清盛の弟)の七代の子孫に当たります。萬寿丸は佐々木流朽木氏の出で、河内次郎顕盛の養子となった人物です。そして、この土地は比企氏の所領になり、比企氏滅亡後、後北条氏の家臣で川越衆の小菅大炊助の所領になり貫高3貫文でした。「武蔵田園簿」によれば、横田氏の所領で80石でありました。後に天保2年(1831)の検地では183石になっています。

江戸時代を通じて、石坂山南西面の450町歩の山腹一帯を入西原といい、入西17か村の入会秣場として利用されました。この秣場は農家の馬の飼料や肥料として重要なものであり、この入会地をめぐってはしばしば騒動が起こりました。

大字の地図3

鳩山町字切図

 

 

 

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