「南比企窯跡群」は6世紀初頭から10世紀前半にかけて須恵器や瓦を生産し、その製品は南関東に広く流通しました。
6世紀初頭に東松山市高坂の丘陵東裾で須恵器の窯として操業を開始し、7世紀後半には鳩山町の石田遺跡や赤沼古代瓦窯跡などで勝呂廃寺(坂戸市)の瓦や須恵器を生産するようになります。 そして、8世紀半ばになると鳩山町の新沼窯跡を中心に武蔵国分寺創建期の瓦を大量に生産し、生産された瓦は南へ約40キロメートル離れた国分寺へ運ばれました。また、大橋日影窯跡ではほぼ同時期に瓦塔というめずらしい焼き物の五重塔が生産されています。
その後、9世紀には鳩山町での生産は衰退し、かわって嵐山町の将軍沢・ときがわ町の亀ノ原に生産の拠点を移し、武蔵国分寺再建期の瓦や須恵器が生産されるようになります。
この展開模式図は、過去の発掘調査や分布調査の成果をもとに作成したものです。