瓦とは?

 瓦とは、崇峻(すしゅん)元年(588)に朝鮮半島の百済(くだら)という国から伝わった建物の屋根に葺く材料の1つです。瓦が伝わる以前の日本の建物は、茅葺きや草葺きといった植物素材のもので、軽く通気性に優れている一方、数年から数十年に1度葺き替える必要があり、火事に弱いという欠点がありました。
 『日本書記』によると崇峻元年、仏舎利(ぶっしゃり)・法師とともに、寺工2名(寺院建築の技術者)・露盤(ろばん)博士1名(鋳造技術者)・瓦博士4名(瓦作りの技術者)・画工1名(壁画等の絵師)が献上されたことにより、飛鳥寺(法興寺)を造り始めたといいます。
 この「瓦博士」とは、瓦作りだけでなく、窯を築いたり瓦を葺いたりする工人のことを示すと考えられています。
 古代の瓦は、主に寺院や高級貴族の邸宅、役所などごく一部での使用に限られていましたが、ここでは、鳩山窯跡群で作られた製品の一部をご紹介します。

瓦の名称と使用場所

【軒瓦】

①軒丸瓦
(のきまるがわら)


丸瓦の先端に文様の入った円板状の瓦当部をつけた瓦で、(あぶみ)瓦・巴瓦ともいいます。 古代においては仏教の象徴であるハスの花をモチーフとした蓮華文(れんげもん)が多く用いられました。
作り方は接合式と一本作りの2種類に大別できます。
接合式は文様の彫られた笵(型)に粘土を押し込んで作った円板状の瓦当部に丸瓦を接合する方法で、朝鮮半島直伝の技法です。
瓦当裏面に丸瓦と接合するための溝をつけたり、丸瓦の先端に刻み目や切り込みを入れたりして、接合部分をはずれにくくする工夫をしていました。
一本作りは瓦当から丸瓦部までを軟らかい粘土で同時に作り、笵(型)を押し当てて作る技法で、一般的に接合式よりも瓦当部と丸瓦部がはずれにくいといわれています。
②軒平瓦
(のきひらがわら)
平瓦の先端部を厚くし、文様の入った瓦当部をつけた瓦で宇瓦(のきがわら)ともいいます。
古代においては、植物をモチーフとした唐草文などが多く用いられました。
作り方は軒丸瓦と同じように文様の彫られた笵(型)に粘土を押し込んで作った瓦当部に平瓦を接合する技法が一般的で、一枚作りの場合、成形台の上で瓦当から平瓦部までを同時に作り、笵(型)を横から押し当てて作る技法もありました。

【丸瓦・平瓦】

③丸瓦
(まるがわら)

半円筒形をした瓦で、男瓦ともいいます。
葺き重ねるために、一方の端に段を設けた有段式(玉縁式)と段がなく一方に向かって細くなる無段式(行基式)の2種類があります。
作り方は円柱状の型に布をかぶせ、そこに材料となる粘土を巻きつけ、それを2分割する技法で、古代から近世まで基本的にはこの技法で作られていました。
④平瓦
(ひらがわら)
断面がゆるやかに湾曲(カーブ)した台形の瓦で女瓦ともいい、作り方には桶巻き作りと一枚作りの2種類があります。
桶巻き作りは桶状の型に布をかぶせ、そこに材料となる粘土を巻きつけ、それを4分割する技法で、朝鮮半島直伝の技法です。
一枚作りは平瓦一枚分の大きさの成形台に粘土をのせ、形を整える技法で、国分寺造営をきっかけに全国に広がりました。

【道具瓦】

⑤鬼瓦
(おにがわら)
大棟や降り棟を装飾する鬼面の瓦。
鬼瓦は邪気を祓い、福を招くと考えられており、建物にとって大切な役割を果たすものでした。
軒瓦と同じように笵(型)に粘土を押し込んで作られていました。
⑥熨斗瓦
(のしがわら)
大棟や降り棟を高く積み上げるための瓦で、堤瓦(つつみがわら)ともいいます。
焼成前の平瓦に切り込みを入れ、適度に乾いた段階で2分割し、焼き上げる技法で作られていました。
⑦塼
(せん)
塼(せん) 現在のレンガやタイルのようなもので、床に敷いたり、建物の化粧材(基壇外装)として使われました。
方形または長方形の木型に粘土をつめて成形し、焼き上げる技法で作られていました。

白鳳期の瓦生産

 東松山市や坂戸市、毛呂山町などの周辺地域で、古墳がつくられなくなった頃、これに代わって寺院がつくられるようになりました。
 特に7世紀後半につくられた勝呂(すぐろ)廃寺(坂戸市)は塔・金堂・講堂など主要伽藍(がらん)を備えた北武蔵でも最大規模の寺院です。
さらに、7世紀末には詳細な規模は不明ですが小用(こよう)廃寺(鳩山町)がつくられ、8世紀初頭には山王裏(さんのううら)廃寺・大西廃寺(東松山市)など小規模な寺院がつくられました。 こうした地方寺院の瓦生産をおこなっていたのが、石田遺跡(鳩山町)で、瓦のほかに須恵器や仏具など様々な種類の製品をつくり、寺造りや僧侶の仕事を支えていました。

瓦画像1 瓦画像2 陶製仏殿

国分寺の瓦生産

 奈良時代には、度重なる飢饉やはやり病、争乱によって世の中は乱れました。
 天平13年(741)、聖武天皇は仏教の力で国を平和にしようと、「国分寺建立の詔」を出し、全国に国分寺・国分尼寺をつくることを命令しました。
 鳩山町では、新沼(しんぬま)窯跡・石田国分寺瓦窯・久保1号瓦窯・鳩山窯跡群などで大量の瓦を生産し、武蔵国分寺(東京都国分寺市)へ供給していました。
 また、石田国分寺瓦窯と久保1号瓦窯の近くでは(いかずち)遺跡という瓦工房も発見されており、雷遺跡で作られた瓦がこれらの窯跡で焼かれていたことがわかっています。
 この他、鳩山町内で生産された瓦には、古代の行政単位である郡名や郷名を記した文字瓦が数多く見られます。
久保1号瓦窯跡出土の軒丸瓦1 久保1号瓦窯跡出土の軒丸瓦2 鬼瓦

文字瓦

 小谷・広町窯・新沼窯・石田国分寺瓦窯跡・雷遺跡などからは当時の行政単位である群や郷名を記した瓦が多く見られます。
文字瓦 文字瓦マップ
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