はぐれ堂
「はぐれ堂」の将軍
昔、岩殿山(物見山ともいう)の九十九谷を住みかにする悪竜が里に出ては田畑を荒らし、人々に危害を加えていたため、村人は困り果てていました。
地もとの人々は、たまたま京の都から下ってきた勇猛な坂上田村麻呂将軍このことを申し上げその征伐をお願いしました。そして「よしや」と奮起した将軍は、嵐山町将軍沢まで京から訪ねてきていた妻にも会わずに追い返し、悪竜退治に専念したという。奥さんが将軍に会うことができずに別れて帰って行ったこの場所を今では「縁切橋」と呼んでいます。
それから将軍は悪竜退治に本腰を入れて立ち向かったのですが、その悪竜の姿はなかなか見当たらない。この将軍に由来する嵐山町の将軍沢から鳩山村の奥田に向かって、竜を追ってきた将軍は、須江、大橋、奥田の分岐点でとうとう道に迷い大変なんぎをしたという。そして、探したが竜は何処へか“はぐれ”て見えない。ここから「はぐれ堂」の言葉も起こったといわれる。そして万策つきた将軍は岩との山に登り、観音様に祈願をしてしばし休憩をすることにしました。
ところが不思議なことに、旧6月1日というのに折から雪が降り出したたという。そしてあたり一面が銀世界と化したのです。
将軍は再び物見山に登り四方をじっと見渡した。そのときおかしなことに物見山から見て西の方角に一か所だけ雪のないところが見える。その瞬間将軍は、はたと膝をたたいた。そして、これぞ悪竜の住みかとばかりそこを目がけて矢を射込んだのです。そして見事に悪竜に命中し、探し求めていた悪竜を退治することが出来たのです。
ところで、この奥田と須江と大橋の三叉路のところは今も「はぐれ堂」というお堂が建っています。それは、坂上使用郡が苦労して悪竜退治をしたことを記念して建てられたものです。近辺の人々は感謝の気持ちを持って、今もよくお参りしています。
このはぐれ堂近くには次のような話が伝えられています。時ならぬ大雪で寒さに苦しむ将軍たちを地元の百姓たちは、門口で麦稈(ばかぬか)を燃やし暖をとらせ、ぬれた衣類を乾かしてあげた。そして空腹の将軍たちに小麦粉の、ゆでまんじゅうを作り、ご馳走したと云う。今でもこの地方ではこの時期になると「尻あぶり」といって麦稈を門口で燃やしたり、小麦粉で「ゆでまんじゅう」を作ることが習慣となっています。それも、この地が如何に悪竜に悩まされたということを物語っていることになります。また、この地の「酒まんじゅう」、隣の高坂での「酢まんじゅう」の起こりもここにあるといわれています。いずれも名産としておいしいおまんじゅうの一つです。
(伝説、場所/奥田、話し手/栗原登喜治、作者/石井兼子)