石坂十郎淵
「十郎淵」の怨霊
鎌形人事やで「七色の産湯」使って育ったという駒王は、父の源義賢が甥の悪源太義平に打たれたとき、畠山重忠の計で木曾の中三権頭兼遠のもとに託けられた。そして、駒王は木曾で人となり源義仲として世に出たのです。だから義仲のことはのちに木曾次郎義仲ともいわれるようになった。
ときは治承4年のこと皆も9戸野義仲は、兼遠の子、樋口次郎兼光、今井次郎兼平の両豪傑を従え、以仁王の令旨を奉じて信濃(長野県)に兵を挙げたとき、年齢は28歳であった。
ところでこの義仲が「目立ちの志」あることを一人よろこばぬ人が伊豆(静岡県)にいた。それは従兄の源頼朝です。
頼朝は寿永2年3月伊豆より兵を率いて義仲を討とうとする。そしてこの両陣営がぶつかり激戦を展開したのが、埼玉県入間郡毛呂山町の「苦林(にがばし)」の地であった。地名はその因を今もとどめています。
智にたけた義仲は逸る家来の将士を制して、「保元以来、わが宗族は互に殺戮しあって来た。そして世の笑いものになっている。また、我が一族の宿敵である平氏もいまだ滅さざるにここ従兄頼朝と戦うのは賢明ではない。しばらく彼の鋒先を避けることにしよう」とした。しかしこのことは猜疑心の強い頼朝には通じなかった。
このような状態のもとで義仲は、源頼朝、範頼、義経の兄弟たちを前にして、雌雄を決することのない泥沼の戦を繰り広げることになったのです。そしてそのような戦の中でも「苦林の戦」はもっとも熾烈なしかも内輪同士が血で血を洗う激戦でした。そのとき「十社神社」に祀られるほどの十勇士もこのちにはてている。
ときに金子十郎も一族の棟梁としてこの「苦林の戦」に参加したのです。そして苦戦のすえ追われ、ソバ畑を通りぬけ、月あかりで一面に見える石坂の山のほとりまで逃げてきた。
鳩川の流れは、聳え立つ石坂の岩山にぶつかってそこを侵食し、そのほとりには深い底無しの魔の淵をつくり、いくつもの渦が巻いていた。このことを知らなかった十郎はソバ畑と間違えて愛馬とともに、この淵に足を取られたのです。そして家来たちの「殿しっかり、殿しっかり」という声と差し出す助けの手にもむなしく、金子十郎は淵に沈み渦巻く水に埋もれていってしまったのです。
このことがあってのち、金子一族ではこの悲惨な戦と不運な棟梁、十郎の怨として、誰もソバの耕作はやめてしまいました。また、それを食べることも禁じたという。そしてこの風習は今も続いています。
金子十郎が馬とともに消えうせた石坂の淵は、後に「十郎淵」と名付けられ、何か事がある時にはこの淵に馬の鞍が浮き上がるという。この鞍は金子十郎の怨霊なのです。
あの日、この淵で糸を垂れて魚釣りをしていた人が、それはそれは大変に大きな蛇を見たのです。なんと大木の幹ほどもある大蛇で、それが岸辺の柳の木にまつわりついて上から首をたれていた。
それとも知らずにこのつり人は、その大蛇に触れて、ゾーと背筋に冷水が流れるのを感じた。そして、上からベローと下がっている舌を見てその場に卒倒してしまった。
これも不運な金子十郎の霊が蛇になってこの世を彷徨っているためだという。
(昔話、場所/石坂、話し手/小沢輝景、作者/小谷野茂樹)