熊井焼
前月号では、今から約1200 〜 1300年前の古代、鳩山は須恵器と瓦の一大生産地であったことを紹介しました。
奈良・平安時代に一時代を築いた須恵器・瓦の生産以来、江戸時代になってもう一度、800年の空白をへて窯業が復活しました。熊井焼です。
関東地方における江戸時代の陶器窯としては黎明期の窯であり、最古の窯である茨城県の笠間焼の開窯に遅れること数年、県内では飯能焼を上回る伝統を持っているようです。熊井焼の開窯は、天明5年(1785)に熊井を訪れた淡路国(兵庫県)の医師が、現在でも観光地でおなじみの楽焼を伝授した事に始まるとされますが、その真相は定かではないようです。
その後、三代目(1840年ごろ)から四代目(1885年)で最盛期を迎えたようです。製品は日常品を中心に、時には芸術性の高い作品も生産し、今宿・川越を経由して江戸の市中で広く流通したようです。
しかし、文明開化の明治時代に入り、鉄道の開業など交通網の整備に伴い、東京で本場の東海地方(愛知県など)の陶器が大量に流通するようになると、熊井焼は衰退していきました。
このように、奈良・平安時代そして江戸時代と二度にわたって、鳩山町は窯業で栄えました。これは、豊富な粘土が容易に産出したことが大きな理由ではないか、と推測しています。鳩山の地には窯業に適した粘土が今でも大量に眠っている可能性があります。